折り合い

罪の声という映画をみた。良く出来た映画だった。

ストーリー自体については幾らでも語る人がいるだろうから、

それ以上どうこうはない。

 

俺が思ったのは、ある一定期間における、もしくは一生の、

その人におけるその人生の、選べなさのこと。それは飲み込むべき

ものなのかどうなのか、のこと。

平等とか公平とか個人差とか差別とか、そういうもののことかもしれない。

 

 

半年前、アメリカで人種問題が大々的に取り上げられていた頃

もやっとした気持ちから下記のような文章を途中まで書いて、結果、

よくわからなくなり、途中でやめていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

人間の社会には下に挙げるような前提があると俺は思うので、

いま世界で問題になっている分断の問題は、ほんとうに難しい。

駄目だと言うのは簡単だが、考えれば考えるほどわからなくなる。

 

・我々は生まれながらに不平等である

 

・我々はお互いのことを理解し合うことは絶対に出来ない

 

・我々は自分と他人との差について喜んだり怒ったり悲しんだりすることで

自分というものを確かめつづける生き物である

 

・・・詰んでいる、と思う。

 

これらを(なんとなく)紛らわすために、

宗教ができ、芸術やスポーツが生まれ、

貨幣をつくり、そしてたまに戦争をした。のだろうと思う。

 

 

自分自身も誰とでも分け隔てなく接してきたかと言われたら、

そんなことは全然ない。

小学生のとき、知的に劣ったクラスメイトを馬鹿にしたこともある。

蹴ったりもした。

某国籍の子を変な名前だからという理由で仲間外れにしたこともある。

逆に自分が見た目や生活環境で嫌な思いをしたことも、めちゃくちゃある。

いまでも多分、俺は無自覚に誰かを蔑み、誰かから無自覚に馬鹿にされている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

これが半年前、その「ブラックライブスマター」という言葉が流行って、

ニュースやネットなどでも声高に訴えている人もいた頃に

どうして日本人が黒人の問題についてそこまで言えるんだろうという違和感をもって

たどり着いた文章(途中)だが、いまも考えはやっぱり変わらない。

 

当事者でない俺がどうしてダメだと言えるんだろうか。

じゃあ黒人の社会の中では全てが差別なく平等なのだろうか。

差別のような人との差違は、うまく折り合いをつけて生きて行くしかないんじゃ

ないのか。

そんなことをずーっとグルグル考えていた。と思う。

 

俺は顔の髭が人より濃い。

もう慣れるどころかネタになって結構と思っているが

どんなコミュニティにいても、このことを茶化す人が経験上1〜2割はいる。

絶対にいる。鬼瓦ごんぞーとか、ほもおだほもお(下らないから漢字にもしたくない)

とか、未だに言う人もいる。

しかし、自分(たち)と、ある個体が違うことによって、人が優越感を感じるのは

心のあり方の1つとして仕方がないことだと今では思う。これは俺の個体差ゆえの

問題だと飲み込んでいる。本当にどうでもいい。

 

でも、これは差別ではない。

俺は髭が人より濃い事で、教育や就職の機会を失ったことはない。

髭が濃いせいで禁止されるような法律はない。

俺には個体差があり嫌な思いをしたが、それでもそれによって

生きる上で機会や権利がなくなる、という事はなかった。

 

 

見た目や生まれた環境をどうのこうのと他者から言われる事に

文句を言っても仕方ない。

しかしそれを理由に本来与えられるべき機会や権利を奪うことは許されない。

 

これで自分は今のところ納得しているけど、また半年後どうだろうか。

 

じゃあ小栗旬星野源のような見た目になりたくはなかったのか?というと、

、、、、まあ、なりたかったわな。