張り合い

毎日は、折り合いと張り合いのシーソーゲームだと常々思っている。

いきなりわけのわからん事を書いているが、本当なので。

 

生きるうえでひとつ大事なのが折り合いで、これはまあ要するに

とるに足らない自分を納得させるために必要なこと。

悠久の歴史の、とある一時を、たまたま生きている自分。

そう考えると日々起きるいろんな事も、まあこんな事もあるかというところに

考えを落とし込んでいける。折り合い。環境と、時間と、自分と、現在と、折り合っていく。

落とした皿は、割れる。そこに善悪は存在しない。

落ちたら悲しいかな皿は割れるが、でもそこで悲しむ必要はない。破片を誰かが

踏まないように、きれいに片付けよう。

 

 

そんでもう一個が、張り合い。

これもないと生きられない。

人はなぜ生きるかの答えの1つが張り合いだと俺は思っている。

小松菜もサボテンもカラスもダンゴムシも生きる上での張り合いがあるのか

聞いた事があるが、皆「そういうのわからねえっす」と言っていた。

小松菜は生きる上で張り合いを感じたことはない。小松菜は伸びて、

最後はおひたしにされたりウサギに食われたりするが、そこに達成感などないだろう。

でも人間はある。張り合いがあるから生きている。

毎日のある時間に、もしくは週に一度、もしくは年に何回か、

何らかの生きていると感じられる瞬間を絶対にみんな持っている。

誰かに自分が認められていることを。存在していることを。

(それがみじんも感じられなくなったとき、生きていることを自分でやめる人もいる)

 

話はそれるけどSNSを考えた人はえげつない才だなと思う。ラジオ体操のスタンプ

をなぜ押してもらって、子供のころ、なぜ嬉しかったか。人々の心に、張り合いに、

スタンプを押させるなんて。

 

で、折り合いと張り合いがとても大事と思っているわけで、

どっちが欠けても社会ではうまくやっていけない。

その天秤の中心にあるのは、俺がいろいろ思うなかでやっぱり結論になるのは

愛で、全てのひとに一定量与えられなけばならない。ワクチンくらい必要。

 

こないだ、「素晴らしき世界」という刑務所から出てうまく生きれない男の

人生のさまをみて、いたくそんな事を思ったのでした。