純粋理性批判

先日、うまく言えないが、近しい人の命と向き合った。

頭が良くユーモアがあり、どういうわけか昔から俺に良くしてくれたが、

自由に生きた彼女には身寄りがない。

おそらく治らない病を宣告されて、自分でもその意味を自覚している。

一度来てほしいと言われて、見舞いを持って会いに行った。

 

行ったら、遺書を見せられた。

あれとこれとそれを、こうしてほしい。性格だろう、とても整然とした内容だった。

もちろん引き受けた。

弱々しくもまっすぐな眼で、言われた。

こういうのは、巡り巡るものだから。でも、本当に安心した。ありがとう。

 

一緒に、スーパーで買った寿司を食べた。

自由な性格だけに、いつも肉だ魚だ、好きな物しか口にしない人で、

こんな状態でもマグロやイクラだけ食べていた。

部屋の端には、見舞いの品であろう野菜ジュースやら玄米茶やらが高く積まれていた。

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俺は今まで「一生のお願い」というものを使ったことがない。

本当にない。一生のお願いはそのままの意味で一生に一度クラスの

ものすごいお願い事であり、貧乏根性からか、その効果を過信しているからか、

まだ使っていない。

遺書を見せられた日、帰りの電車で俺は思った。俺の一生のお願いが見つかった。

 

「自分の死に方を、選ばせてほしい」

 

おそらく自分のいま考え得る最高のお願いは、一生のお願いは、これしかない。

人は、いつか必ず、死ぬ。

金持ちになろうがなるまいが、誰かに尊敬されようがされまいが、どうでもいい。

願わくば、ああいい人生だったと振り返りながら、フワッといなくなりたい。

死にたくはないが、死に方を選びたい。

一生のお願いなんだから、それくらいの矛盾は許してほしい。

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幼稚園児の子が、ストローの先に折り紙で作ったハートをつけて、「矢」なるものを作った。

それを、割り箸と輪ゴムでつくった「弓」なるもので、俺に射った。

ハートの矢が1かい当たると、わたしの事がめっちゃ大好きになるんだよ。と言った。

ぐは、当たった〜と言い、俺は子をめっちゃ大好きになった。

ハートの矢がもう1かい当たると、今度はきらいになるんだよ。うふふ。と言って、

また矢を射ろうとした。

 

俺は思った。一生のお願いだから、このまま死なせてくれと。